צא

دمنهور - 𝑆ℎ𝑖𝑧𝑢𝑜𝑘𝑎 | 𝐻𝑒𝑟𝑚𝑒𝑠 𝑇𝑟𝑖𝑠𝑚𝑒𝑔𝑖𝑠𝑡𝑢𝑠(933311) | Ramakrishna | 𝐑𝐀 | 1991.03/19 | JAPON ♎︎

自然でありたい、自由でありたいというのは言い換えてしまえば《最も良質な奴隷状態》を探しているのであって、何にも左右されない自然とは人工的なものである。

様式の固定をみんな嫌がるけど、往々にして、自他の区別のない迷妄的な態度である。
(太陽はなぜ一向に形質を変えないのか? テレビはなぜ何十年も四角形であるのか?)
位相をもってるから固定されているのだ。つまり周囲をよく見ているのだ。
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資源があるところに管理の概念が生まれ、管理のあるところに建築が生まれ、建築のあるところに象徴が生まれる。
象徴とは権威であり、権威とは管理の最上の形式である。
つまり資源をもっているので、管理しなければならず、位相をもつ事になっている。
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つまり様式とは洗練された伝達の技術であって、他者にとっての有用性を考えれば、それを忌避するのがいかに中身がなく、本末転倒の荒唐無稽か分かるだろう。
また様式とは内容ではない。
様式の固定を嫌がる人間は最上の形式にまで行き着いてないだけの話である。本質とは一つしかない。重力それぞれに一つあるのだ。
二元に一つ、多元に一つ。
それらが大元という一つに向かっていくのだ。
それすらも放棄するなら、それは変人であって、単なる不誠実で残念な人だ。

独自性を考えるとき大多数はいかに特別視されるかを考える。どこに立てば見栄えがいいかなど。
そんなものは決まり決まった隙間産業の考え方であり内実空疎かつ不誠実である。
再度言おう。『人生がないから、受肉がない。つまりイニシエーションがない。したがって知性もなければ神経もない。ましてや思想もない。』

独自性とは人工の姿である。なぜなら軋轢によってうまれる有象無象ないまぜの未整理状態にテクノロジーを与える事で形質となっているからだ。ただ生きているだけで独自性であり、それは人工的である。
ただ生きているだけで世に言うところの没個性的な人間とは才能がないのではなく《赤ちゃん》なだけである。社会的な単位を持たないのだ。

未知とは、何にも介在せずに、未開地で進化を遂げて、羽ばたいたようなものではない。
大小問わない社会というものの数限りない軋轢と少しの神秘体験が繰り返され、悪戦苦闘し、その奔走自体が様式である姿だ。
間違っても"社会つまり軋轢を"捨て去った姿ではない。開き直った姿ではない。
全的状態が社会を照射する。それが未知だ。

誰も見た事もない作品とは、過剰なほど人工的・機械的・産業的・意図的なものである。
なぜなら人間は機械ではなく、知能に優れながらも脆弱性の高い動物だからだ。
人間が原始的なのだから、そこで資源はすでに確保されているのだ。
となると行いは人工的な態度でなければ、収まりがつかない。それこそが自然であり、独自であり、自由である。
(ナマモノは加工しなければ腐る。自然なものが未知なるものとそれでも考えるだろうか?)

自然主義自由主義こそ人工的・奴隷的で、行いは庶民的なのだ。世の言うところの没個性的な態度なのだ。